余薫

 ただ何となく香りにつられて、顔を向けただけ。
 手を伸ばそうとも、触れようとも思ってなくて。
 ただ目が合って。
 ニ、三言葉を交わして。
 何かが気になって、立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
 いつもと違う空気を持っていた友人が不思議だったから。

 けれど、それがいけなかったのだろうか。
 それとも、私がこの香りに惑わされてしまっただけなのか。

「……ふ、ぁ、ぁあっ!」
 甘い匂い。
 甘くて、すぐにでも人を狂わせてしまう、毒の香り。
「あ、はぁ、っあ、っ」
 部屋にこもっていた埃っぽくすれた空気が、段々と湿っぽいねっとりとした重いものへと変わっていく。
 ことある事に細い悲鳴を上げる床板や。
 宙に舞っているきめ細かい埃や。
 薄暗い辺りなんて気にも止まらない。
「く、んっ、っ、だ、め――――っ!」
 熱のある声が喘ぎ以外の言葉を発する。
 汗ばんだ手の平が頬を掠め、無造作に私の頭を掻き抱いた。
 すぐ耳元で鳴る艶のある声。
 その合間を縫って聞こえる卑猥な水音。
 軋む板と同じリズムで繰り返す腰の動きと、喉から洩れる荒い呼吸。
「あ、あっ、っ、っ、――――!!」
 その双方が感じている同じ昂ぶりの中で、ただ、今とは違う事を思った。

「あら、香水つけてるの?」
 はぁ、と大きな溜息をついた蓉子に声をかけた。
 少し気怠るそうに顔を上げて髪を掻き上げると、軽く首を横に振って否定する。
「いいえ。どうして?」
「何か、雰囲気が違うから」
「……そう?」
 僅かに微笑むと、手にしていた書類を一つにまとめて、脇に置いていたファイルへと戻し始めた。
「ごめん。今日はこれで帰るわ」
「それは構わないけど。用事?」
「……えぇ。ちょっと」
 使っていたファイルを元の棚へと戻し、椅子の下へ立て掛けていた鞄を手にする。
 その、彼女が席を立った時の一瞬、ほのかに香っていたものに、違う香りを見つけた。
 覚えがある。
 これは――――。
「紅薔薇さま」
 今まさに部屋を出ようとした友人を呼び止めた。
 ビクリと身を固めて、そしてゆっくりとこちらへと振り向く。
「何かしら?」
「そこまで付き合うわ」
「え?」
「あ、その予定表の確認が済んだら帰ってもいいから。戸締りはしなくていいわ」
 同じテーブルで業務の手伝いをしてくれている妹達に声を掛けると、逃げられる前に当人へと歩み寄る。
「行きましょうか、紅薔薇さま」
 ポンと軽く肩を叩いた。
 それに、何かを観念したような渋い表情をして無言のまま部屋を出る。
 私もその後に続いて部屋を出て、しっかりとその扉を閉めた。
 一段一段を踏みしめる度に鳴る階段を慎重に降りて、私達は玄関ではなく、今は滅多に使われていない一階の部屋へと忍び込んだ。
 ドアノブの上に付いている錠を捻るとカチャンと金属音がして扉に錠が下りる。
 それを二度確かめて、私は奥にいる友人へと振り返った。
「お昼休み明けぐらいから、何か変だなって思ってたんだけど」
 入り口の側にあったダンボールの上を指でなぞる。
「変って?」
 いつから掃除していないのか、なぞった指先に綿埃がべっとりとついていた。
「気怠るそうにして。いつものしゃっきりとしたあなたじゃないもの」
 指についた埃を吹き飛ばして、ずっと目に付いていた部屋の奥へと足を進める。
 そこにだけ切って貼ったような小奇麗さがある。
「……そう?」
 部屋の一番奥の隅に置かれている、今は使われていない一人掛けの大きな椅子。
 そこへ近づいて、私は思わず口元を綻ばせた。
「聖はどうしたの?」
 ピクリと蓉子の眉間が動いた。
「……さぁ? ずっと一緒なわけないから」
「でも、いたんでしょ? ここに」
 埃ひとつない皮張りの椅子に腰掛け、いつもあいつがするように足を組む。
 二階のサロンを出る時と同じ渋い顔。
 それは私の言葉を肯定する表情だった。
「ふぅん。それで?」
「……それでって?」
「聖は優しかった? それとも、激しかった?」
「っ――――?!」
 明らかに動揺した蓉子を見て、何だか可笑しくなった。
 昔から隠し事が苦手な人。
 だから、面白い。
 髪を上げていた黒いヘヤバンドを外して、落ちてきた前髪をかき上げる。
「なるほど。これは聖の香りだったのね」
 椅子から腰を上げると、外したヘヤバンドを座っていた椅子へ投げて再び蓉子に向き直る。
「私はあいつほど優しくもないし、手加減もしない」
「……何の話?」
「あなたのその煮えきってない性欲を処理してあげるって話」
 微笑みかけると、蓉子の顔が一瞬にして赤く染まった。
 私が一歩足を踏み出すと、蓉子も一歩後ずさる。
 その狼狽する姿が愉快だった。
「自分が何を言ってるか、あなたわかってるの?」
 自分の身を守るように精一杯の強がりで声に威勢を張る。
 その姿も、楽しい。
「わかってるわよ?」
 更に一歩、蓉子へと近づく。
 僅かに香る匂いが少しだけ強くなった。
「あなたが聖とどんな関係にあるのかも」
 手を伸ばさなくてもすぐに触れられる距離で、真っ直ぐに蓉子を見つめた。
「けどね、私はそんなのに興味ないわ。あなたが誰と関係を持とうがね」
 少しだけ手を伸ばして、彼女のタイへと触れた。
 自分と同じ制服の手触り。
 いつも自分のタイを解くように、ゆっくりとそれを解いていく。
「興味あるのは」
「ちょっと、やめ……!」
 セーラーカラーの影に隠れていたうっすらと赤い痕を見つけて、また口元が緩む。
「あなたがどんな声を聞かせてくれるのかって事」
 有無を言わさずその痕へと唇を寄せた。
 舌先で強くそれをなぞる。
――――っ」
 触れられて、ビクンと蓉子の体が強張る。
 それが、合図だった。
 私はそこから唇を離すと、蓉子の顔を引き寄せて唇へと口付けた。
 柔らかい唇を自分の唇で擦りつけるようにしてその感覚を楽しむ。
 頑なに結ばれたそれを抉じ開けるように、蓉子の両の唇を舐めあげた。
 それまで閉じられていた目がうっすらと開かれる。
 けれどそれも一瞬で、私と目が合うと直ぐ様閉じてしまった。
 見たくない何かを見てしまったような。
 自分に触れているのが違う人であると言っているような態度。
 本当に、正直な人。
 唇を離して少しだけ距離を取った。
 ぎゅっと目を閉じて、両の拳を強く握って。
 その態度は私へ大きな拒絶を表していた。
 同時に、あいつへの一途なまでの想いを見せ付けられる。
 笑い飛ばしてしまいそうになった。
 これは単なる行為でしかないのに。
 単なる遊びにいちいち義理を立てる蓉子が可笑しかった。
 私は蓉子の右へと踏み出して、少し強めにその肩を後ろの椅子へと押した。
 突然の事に少しの声を上げて蓉子がよろめいて崩れる。
 逃げ出さないようすぐに目の前に立ちはだかって、彼女を見下ろした。
 乱された制服をぎゅっと握って、敵意を持った目で睨み返される。
「いいわね、その目。ゾクゾクしちゃう」
 胸の前で握られていた手を強引に引き寄せて、再度キスを迫る。
「…………最悪」
 触れた後の唇が、小さく呟いた。
 最悪。
 今の私にとっては、これ以上ない褒め言葉。
 椅子の空いた部分に片膝を付いて上がると、剥き出しになった白い肩に口付けを落として行為を再開した。

――――っ、はぁっ、はぁ、は――――」
 突き立てた指に踊らされるように、全身が、呼吸が、あがっていた。
 融けるような熱を手のひらから全身に感じながら、汗ばんだ首筋へと噛り付く。
 直接頭の奥へと流れ込んでくるような艶のある声と、眉を顰めて羞恥に耐える表情に、私自身も昂ぶっている事を感じていた。
「もっと啼きなさい」
 ぎちぎちに狭まったそこへもう1本指を継ぎ足して中を思い切り掻き回す。
 同時に親指の腹で顔を擡げているそれを力を入れて押し潰した。
「は、あ――――!!」
 おとがいを反らして、声にならない声を上げて、何度目かの絶頂。
 ずっと強張っていた身体が緊張から解かれたように力をなくして、今度こそ蓉子は果てた。
 片手で私の肩をしっかりと握り締めたまま、開かれている唇で忙しく呼吸していた。
 堅く目は閉じられている。
 抜き出した指先を自分で口に含んでそれらを舐め取る。
 次に、額に浮かぶ汗の玉を唇を寄せて舐め取った。
 不意の事に蓉子が私を見上げる。
 それを無視して、目尻から頬を流れていた光の筋も舐め取る。
「……何……?」
 まだ呼吸の整わないまま、訝しげに彼女が口を開いた。
「別に」
 何の理由のない行為なんだから答えようがない。
 仮にあるとすれば。
「これの報酬、かもね」
 何かを言い出そうとしていた唇へ、触れるだけの口づけを落とした。

 後ろ手に閉めたドアに寄りかかって、私は再度自分のタイを結び直した。
 身支度の手伝いはいらないと部屋を追い出されて、急に手持ち無沙汰になってしまったから。
 しばらくは出て来そうにないし。
 何となく、まだ妹達が残っていそうな二階に戻る気分ではないし。
 縋っていた扉から身体を起こして、薔薇の館を出た。
 寒さが強くなって来た空気は幾分火照っていた身体には丁度良かった。
 大きく息を吸い込んで吐き出す白い息が消えて行くのを見届けて目を閉じる。
 ふと、さっきまで当たり前になっていた香りが鼻を抜けた。
 そうして、事の発端は一体何だったのかを思い出して、私は笑った。
 馬鹿みたい。
 彼女に傷を付けても、何が変わるわけでもないのに。
 遊びだなんて、言い訳にも程がある。
 あれはきちんとした理由の下に行った事。
 下らない。
 本当に、下らない。
 必死に取られまいとする私の姿が。
 こんな事でしか理解(わか)れない気持ちが。
――――――は」
 口を突いて出た笑いは。
 しかし、堅く結んだ唇に塞がれてその後が続く事は無かった。

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