その名前を(真・三國無双)
					 部屋に入ってくるなり、彼女は文机に向かって先の戦の報告をまとめていた私の背にもたれかかって来た。
					 一瞬だけ、筆を持つ手が止まる。
					「何でしょうか? 尚香様」
					 こうやって背中越しに呼ばれる時は、決まって私に文句を言ってきたり、はたまたその逆だったりする。
					 でも、最近、特に彼女のご機嫌を損ねてしまうような事はしていないはず。
					 他にも思い当たる節はないし……。
					 なかなか言い出さない彼女に、僅かながら焦ってしまっていた。
					「……それ、やめない?」
					 半ば呆れたような、拗ねているような口調。
					 それ、と言われて、書いている途中の報告書を見る。
					「いえ、これは今日中に周瑜殿に渡さねばならないものでして、やめ……」
					「そうじゃなくて」
					 先程よりも呆れた声で遮られた。
					 ……これではない?
					 じゃ、一体……?
					「では、何をやめろと?」
					 全くの予測が付かずに素直に聞いてみる。
					 考えているのか、珍しく言葉数の少ない彼女が更に黙り込んだ。
					 喋っていた間も動かしていた筆先の墨を足して、一文一文を間違えないように書き連ねていく。
					 そうして、最後の一文を書き終えて筆を置くと、それを見計らったように、
					「『様』付けであたしを呼ぶの、やめない?」
					 多少ぶっきらぼうに、私に預けていた背中を丸めて、そう口にした。
					 思ってもない事を言われ、ドキリとする。
					 ……いや、幾度か、夢の中でそう思い描いた事はあったから。
					 だから、見透かされてしまったのかと思ってしまった。
					「しかし、私は孫呉に仕える一軍師。あなたは、その孫家の姫であらせられる。それは無理が……」
					「無理じゃない」
					 私の言葉を掻き消すように彼女が言葉を荒げた。
					「……無理なんかじゃ、ないわ」
					 声のトーンを落として、丸めていた背中を再度私に預けて、
					「あなたはあたしを好きだって言ってくれた。その言葉に嘘偽りがないなら……こうやって二人の時だけでいいから、『あたし』を呼んで欲しいの」
					 呟くように、言葉をひとつひとつ噛み締めて口に出していく。
					 背中合わせで相手の顔は見えないけれど。
					 どうしてか、私には彼女が笑っているように思えて。
					 思わず笑みを零した。
					「別にみんなの前でもそう呼べって言ってるわけじゃないのよ? それくらいの分別、あたしにだってあるわ」
					「そうですね。それじゃ、交換条件でどうですか?」
					「交換条件?」
					 書き終えた報告書を丁寧に丸めて紐で括る。
					 それを机に置くと、顔だけ少し後ろの彼女へと振り向いた。
					 ふと、先にこちらを向いていた彼女と初めて目が合う。
					「私があなたを様付けで呼ばない代わりに、あなたも私を名で呼ばない、とか」
					「……字で呼べって?」
					「私を字で呼ぶ人は、ここにはいませんから」
					 背中が離れたのを確認して、正していた足を崩してあぐらを組んだ。
					 ここからは、根気勝負。
					 特に勝ち負けなんてないけれど、簡単に言い負かされてしまうのも癪だから。
					「…………」
					 ぼそぼそと何か後ろから聞こえた。
					「聞こえませんよ?」
					「別に、あなたに言ってない」
					 少し苛立った声が返ってくる。
					 けれど、今のは照れ隠しなんだとわかっていた。
					「……は」
					 言葉を吐き出そうとして、無理矢理飲み込んで。
					 それをもう何度繰り返した後、
					「…………もう、やっぱり無理。いきなり言われても、呼べないわ」
					 離れた背にどっかりと身体を預けられる。
					「そうですか。字で呼んでくれないと、私も様付けで呼びますが?」
					「……、何かそれ、ズルイ」
					「ズルくなんてないですよ」
					「ズルイ」
					 ふてくされたように呟かれた言葉が胸の奥に染み込んで、暖かい気持ちになる。
					 小さく笑みを零すと、
					「今回はあなたの負けですね、尚香」
					 投げ出されている華奢な手を上から包み込んだ。
					 ひんやりとした感覚の後、じんわりと暖かくなっていく。
					 いきなり手を取られた事に驚いたのか、彼女の身体がビクリと震えた。
					 同時に、小さく息を飲む声も聞こえる。
					「………………」
					 握った手をぎゅっと握り返される。
					「…………やっぱり、ズルイじゃない」
					 トン、と左肩に僅かな重みが掛かった。
					 さらりと彼女の髪が頬を掠める。
					 同時に、ふわりと柔らかい香りが辺りを包んだ。
					「…………陸儀」
					「……えっ?」
					「これ以上は、譲らないんだから」
					 してやったりと、笑みを含んだ声が後ろから聞こえた。
					 思いもよらない呼び声に、今度は私が言葉を詰まらせる番だった。
					「どうして、その名を?」
					「権兄さまに教わったの。知っているのは、多分あたしと兄さまだけじゃない?」
					「そう、ですか」
					 きっと酒の勢いで洩らしてしまったのだろう。
					 知られても、特に隠し立てしているというわけではなく、別に何でもないのだけれど……。
					「やはり、今回も私の負けですね」
					「今回は引き分け、かな」
					 互いに呟いた言葉がハモった。
					 思わず顔を見合す。
					「……じゃ、陸儀の負け」
					「……では、引き分けと言う事に」
					 かたや笑顔、かたや苦笑で、先程とは逆の事を互いに口に出す。
					 再度、向き合ったままで見つめ合ってしまった。
					「……ふふっ」
					「……はは」
					 沈黙に耐えれなくなって笑い出したタイミングも同じ。
					 それが輪を掛けて、しばらく二人で笑い合った。
					 ひとしきり笑い合った後、彼女が握った手をかざして見せる。
					「初めて、じゃない?」
					「……?」
					「やっと、かな」
					 わからない?と嬉しそうに繋いだ手を見せてくる。
					「手、繋いでくれたよね」
					 にっこりと微笑んだ彼女が眩しくて、目を逸らして白旗を揚げた。
					「……やっぱり、今回も私の負けで良いです」
					 クスクスと笑う声が後ろから聞こえて。
					「それじゃ、宜しくね。伯言」
					 勝ち誇ったような声で、私を呼んだ。