My Dear...

 目の前のディスプレイに映し出されている映像を遠目に見ながら、崩れそうな体勢を直すため膝を抱え直して小さく息を吐く。
 手にしっくりと馴染んでいるマウスを動かしてそのウィンドウを閉じると、ディスプレイの電源だけをオフにした。
 そのまま椅子の背凭れに背を預けて、再度溜息をつく。
 何もする事がなくて色々とネットを見ていたけれど、特にこれといった事もなくてすぐに止めてしまった。
 前は、何かする事がなくても今みたいに退屈と感じなかったのに。
 何もしなくても時間は過ぎていたのに。
 あの日から、もう一ヶ月。
 その時に受けた傷はまだ完全に治ったわけじゃないけど、普通に生活する分には差し支えない。
 だけど大事を取って「しばらくは外出禁止」とドクター・ストップならぬミレイユ・ストップをかけられてしまった。
 その当の本人は用事があるとか言って朝早く出掛ける始末。
 こうして一人ぽつんと取り残されてると、まるで、遊び道具を没収された子供みたいに思えて。
 私はまた大きく溜息をついた。
 伝えたい事がある。
 それはこれからの為の第一歩だから。
 だから、早く伝えたいのに……。
 ビリヤード台の上に投げてある自分の腕時計を見る。
 針はまだ午後1時を過ぎたばかりだった。
 4時頃に帰ると言った彼女の言葉を思い出す。
 彼女が帰ってくるまでまであと3時間……まだ、3時間もある……。
 規則的に時間を刻む針を恨めしそうに睨んでも、それが決して早くなる事はない。
 それでも少しでも早く時が経って欲しくて睨まずにはいられなかった。
 ――――って、何やってるんだろ……。
 コツンと抱えている膝に額を当てる。
 そのまま目を閉じて何も考えないように意識を空白にする。
 けれど、それもほんの数秒だった。
 ふと思い立って、腰掛けていた椅子から立ち上がるとそのままキッチンへ向かった。
 今朝使ったままのポッドをそのまま火にかけると、戸棚からカップとティーポッド、アールグレイのティーパックを取り出す。
 こういう時は何か飲んで落ち着くに限る。
 ゆっくりしてればそのうち何か閃くだろうし。
 しばらく待っていると、ピーと沸騰した事を知らせる音が聞えて火を止めた。
 ティーポッドにバックを入れてお湯を注ぐ。
 丁度2杯分取れる量のお湯を入れると、ポッドとカップを持ってリビングへと足を向けた。
 テーブルにカップを置くとゆっくりと注いでいく。
 薄い橙の液体をカップの8分目まで入れると、持っていたポッドを置いて椅子に腰掛る。
 いい香りのするカップを両手で持つと、火傷しないように僅かにお茶を口に含んだ。
 鼻腔をくすぐる優しい香りと身体に染み入る熱が、先程までのもやもやした気分を一気に取り除いてくれるのがわかる。
 もう2、3口ほど口をつけるとゆっくりとカップをテーブルに置いた。
 そして短く息を吐く。
 視線を部屋の中に色々と泳がせてもう見慣れてしまった風景を遠目に見ていた。
 見つめていた正面の写真立ての側に、小さく折り畳んである紙がある。
 遠目にはわからないけど……かなり皺になってるみたいだった。
 何故か気になって、私は席を立ってそれの側に寄った。
 隠すように置いてあるその紙を手に取って、少しだけ笑ってしまった。
 手紙だった。
 ミレイユに宛てて、私からの。
 手紙が皺になっているのは何となく予想がついた。
 彼女の事だからきっと握りつぶそうとでもしたんだろう。
 …………何か、今にして思えばちょっと恥ずかしいかもしれない。
 苦笑を零しながら自分の書いた文面を目で追っていった。
――――ホントに、恥ずかしいかも」
 一通り目を通し終わった後、そんな言葉が口をついた。
 初めて他人に宛てて書いた手紙は、別れの言葉と不器用な気持ちだった。
 言葉に出来ない気持ちをどうやって言葉に表すか、そういえばすごく悩んだ気がする。
 ミレイユはこれを読んで、一体どんな風に受け取ったのかな。
 『ありがとう』って気持ちは、ちゃんと伝わったのかな。
 自分の書いた文字を見つめながらそんな事を考える。
 しばらく手に取った手紙を見つめた後、元あった大きさに折り畳んで元に戻した。
 座っていた椅子に腰掛けて、少し温くなったカップを手繰り寄せる。
 口にカップを当てながら、開け放している窓の向こうの空を見上げた。
 あの日、ミレイユが荘園に現れたのはソルダの幹部からの差し金だった。
 クロエか私のどちらかを消してミレイユがノワールとなる事。
 その後は折を見てアルテナを殺す事。
 あの時、ミレイユは私を相手に選んだ。
 それはきっと最初の約束を果たすためだと思う。
 ……結果的には最後までソルダの手の中で踊った事になるけれど。
 少なからず私は、得たものは大きいと思う。
 そのために払った代償も大きかったけれど。
 温くなった紅茶を口に含む。
 流れていく雲を遠目に見ながら、この手で殺めてしまった友達の事を考えた。
 自分を責める事はいくらでも出来る。
 でも、きっとそんな事をしてもクロエは喜んでくれない。
 私は簡単に人を殺せる。
 人を殺して、私はすごく悲しい。
 犯した罪は消える事はないから。
 その罪を私は受け入れる事を選んだ。
 この生き方はきっと正しいはずだ。
 私は罪人だから。
 これからも増えていく罪を背負って生きなければならないから。
 だから、そのためにどうしてもしなくちゃいけない事がある。
 これからを踏み出す一歩の準備をしなくちゃいけない。
 私の想いと一緒に。
 不意に玄関のドアが開く大きな音がして、現実に引き戻された。
 振り向くと、大きな買い物袋を2つも持ったミレイユが玄関から姿を現した所だった。
「おかえりなさい」
 大荷物を不思議に思いながら席を立って、ミレイユの側に近寄りながら声を掛ける。
「ただいま」
 コートを椅子の背凭れにかけながら、妙に上機嫌なミレイユが笑い混じりにそう返してくれる。
 ビリヤード台の上の腕時計に目をやると、まだ2時になっていなかった。
「早かったね」
「まぁね。っと……はい、ちょっと来て?」
 右手を後ろに隠してニヤリと何かを企んでそうな笑顔でそう言う。
 何か嫌な予感がして、私は数歩後退さった。
 そんな私を見て少し不機嫌な顔になる。
「なによぅ、その反応は?」
「え、いや……つい」
 言葉を濁しながら切り返すと、覚悟を決めて再度ミレイユに歩み寄る。
「ほらほら、こっち来なさい」
 側に寄った私の右手を強引に引き寄せると、やや前のめりになった私を抱き留めるように、後ろ手に隠した手と共に首の後ろへと両手を伸ばした。
 器用に私の首に何かチェーンみたいなものをつける。
「うん、ピッタリ」
 満面の笑みで満足そうに頷く。
 私は何をされたのかわらからず、ぽかんと自分の首にかかったものを見つめた。
 淡い桜色をした小さなハート型の石が光を反射させている。
「お揃いなのよ、コレ」
 そう言ってミレイユが自分の首に掛かっているネックレスを見せる。
 その首元には同じ型の淡い翡翠色の石が光っていた。
 それでも、私は未だに状況が飲み込めてなかった。
 どうして私にこれをくれるのかわからなかったから。
「ミレイユ、これは?」
 問い掛けた私の言葉に、ミレイユは得意気な表情を浮かべた。
「バースディプレゼント。ささやかなお祝いよ」
 そう言ってにっこりと笑った。
 バースディって……誕生日のプレゼント?
 誕生日…………私がこの世に生を受けた日。
「……ミレイユ。私の誕生日は……」
「はい、ストップ。いいから、貰っときなさい」
 言葉を遮られ何も返せないまま、どう返事をしていいものかわからずにベッドルームに移動していくミレイユを見つめる。
「今日って、14日よね?」
 椅子にかけていたコートをクローゼットに仕舞いながら、ミレイユがそう聞いてきた。
「……ううん、今日は13日」
「え? ウソ」
 本当にびっくりした顔をしてミレイユがリビングに降りてくる。
「ホント」
 ダメ押しにそう言葉を返した。
 私が嘘を言っていない事を感じたのか、ミレイユは小さく溜息をついた。
「……ま、それならそれでいいわ。少し楽しみは減っちゃったけど」
「え? ……何かあるの?」
「あんたが日本からここに来た日よ。それと」
 真っ直ぐに私を見ながら、ミレイユが笑った。
「あんたのバースディ」
 ドキッとした。
 私にはなかったものを与えてくれた事に。
 何より、すごく真っ直ぐな言葉に。
 失敗したわ、と苦笑を零しながら彼女がビリヤード台の上の紙袋を抱える。
 そこでようやくピンと来た。
「だから、こんなに大荷物だったの?」
「そうよ。ディナーを豪華に振舞ってあげようかと思ってたんだけど、明日にお預けね」
 大荷物を抱えたミレイユの後を追って私もキッチンへと足を運ぶ。
 手分けをして買ってきた食材や飲み物などを戸棚や冷蔵庫に仕舞っていく。
 戸棚に紅茶の缶を仕舞った時、不意に首元にかかる僅かな重みを感じて、掛けてもらったネックレスを少しだけ指先で持ち上げる。
 他の誰かから何かを貰う事は初めてだった。
 それも、誕生日のプレゼントだなんて……。
 自然と口元に笑みが零れる。
「……すごく、嬉しい。ありがとう」
 嬉しいと思う気持ちをそのまま口に出した。
 冷蔵庫の扉を閉めて立ちあがったミレイユが私に向き直る。
「喜んでくれてるなら、あたしはそれで満足よ?」
 優しい笑顔が私を見つめる。
「で、早速で悪いけど、あたしにもお茶貰える?」
 肩を竦めながらおどけて見せるミレイユに、ひとつ頷いて返事を返した。
 二人分の紅茶の用意をしてリビングへと戻る。
「はい、ミレイユ」
 メールのチェックをしていた彼女の側にカップを置くと、自分のカップを持ったままその横に引いてあった椅子へと腰を下ろした。
「平和なもんね、最近」
 紅茶を啜りながらおどけてそう言う。
 それに苦笑を返すと、私も持っていたカップに口をつけた。
「けど、ちょっと悔しいわ。覚え間違いだなんて」
 パソコンの電源を切りながら不意に先程の事を口にした。
「何でさっき、私の誕生日ってだって言ったの……?」
 プレゼントを貰った時から感じていた疑問を聞いてみた。
 口をつけていたカップをビリヤード台に置いて、椅子ごとミレイユが私に向き直る。
「あんたの履歴って、そのほとんどが作られたものだわ。なら、そんな偽物を祝うよりも、あたし達が一緒の記念日を祝った方がいいでしょ? 『記念日』ってちょっと強引だけど、一番大切な日を記念日に決めてしまえばいいわ。そうすれば、あたしとあんたにとって、忘れられない一番の記念になる日じゃない」
「……うん、そうだね」
 彼女が何を考えていたのかが手に取るようにわかって、私は少しの苦笑を漏らした。
 きっと、ずっと気に掛けてくれていたんだと思う。
 私を示す情報はそのほとんどが嘘で作られている。
 それをひとつづつ本物にするためには、新しいものが必要だから。
 だからミレイユは、多分だけど、まずはじめに私やミレイユにとって特別に大切な日を作ろうとしたんだと思う。
 置いたカップを再度手に取ると、一口口に含む。
 そうして、私の顔を覗きこむようにして私と目を合わせた。
「結局、あの学生証も偽物だったわね」
「…………でも、あれは――――」
「だけど、あれも『夕叢霧香』。つまり、あたしの目の前にいるあんたよ」
 妙に自信たっぷりに言うと、ミレイユは私を見つめた。
 ――――不思議なもので。
 彼女がこう自信気に言うと、そうなんだと思ってしまう事が多くなってしまった。
 今だって、もしかしたら本当かもしれないなんて思っている自分がいたりして。
「……そうかも」
 なんて、肯定的な返事をしている自分がいる。
「今は、あの学生証が本物なんでしょ?」
 優しい笑みを浮かべたまま、柔らかな言葉を投げかけてくれる。
 私を見つめる瞳がすごくくすぐったく感じて、少し目を逸らした。
 それでも自然に零れる笑みだけは隠せない。
 言葉の代わりに頷いて見せると、彼女が小さく笑った。
 不意に、脳裏を忘れていた事が過ぎった。
 そういえば、彼女に伝えなければいけない事があったんだった。
 嬉しい事が重なって忘れていた。
「ミレイユ、あのね」
 私も椅子ごとミレイユに向き直り、正面から彼女を見る。
 違う雰囲気を感じたのか彼女の表情が少しだけ普通に戻った。
「あのね、私……近いうちに、一度日本に戻ろうと思うの」
 予想通り、ミレイユの表情が強張る。
「ここを出て行くわけじゃないわ。ただ……里帰りみたいなものだから」
 彼女が今心配した事は、多分ここを出て行ってしまうという事だろう。
 けど、私にはそんな気はさらさらない。
 「出ていけ」と言われても意地でここに居座るぐらい、側を離れたくないから。
「えっと、何日もいないとかそんなのじゃなくて……少し見て帰る―」
「いいわよ」
 先程とは逆の、安心した笑顔を浮かべて私の言葉を遮った。
 今度は私が彼女を見つめる。
「いい事だと思うわ。とりあえず一段落ついた事だし、それもいいんじゃない?」
 オレンジペコを口にしながらそう言葉を返してくれる。
 とりあえず、彼女にとっての憂いは絶てたようだった。
「それでね、ミレイ――――」
「ただし、あたしも一緒に行くわよ」
 言おうとした事を先に言われて、再度私は言葉を失ってしまった。
 直ぐ様苦笑が零れる。
「……うん。傷もまだ完全じゃないし、一緒に来てくれるとすごく助かる」
 私の言葉に嬉しそうに笑って、手に持っていたカップの中の紅茶を半分ほど一気に飲み干した。
「早い方がいいわね」
「え、私はいつでもいいけど?」
 思いの他ミレイユが乗り気なのをちょっと気にしつつ、曖昧に返事を返す。
 私の答えを聞いて、ミレイユがニヤリと笑った。
 ……ちょっと、嫌な予感。
「それじゃ、明日ね」

 月明かりに浮かび上がる薄闇の教室を見渡して、私はひとつ小さな笑みを零した。
 帰ってきたんだと言う実感が涌いてくる。
 教卓の後ろを通り過ぎ、窓から3番目の列の前で足を止めた。
「今はもう時間が経ってしまったけど、あの頃の私の時間で言えば、ここが私の席だった」
 そう言って、前から3つめの机の前に足を運んだ。
「仲の良かったクラスメイトはここと、その後ろ。……仲の良い友達と言っても、結局、私は一人だったけど」
 自分の席のすぐ隣とその後ろの席を指差して、私はミレイユに向き直った。
 教室の出入り口の側の壁に腕を組んで寄りすがった格好のまま私を見ていた。
「……ゴメンね、飛行機の時間に間に合わなくて」
 私を見つめる瞳に負い目を感じて、何度目かの謝罪の言葉を口にする。
 その言葉にミレイユが何度目かの苦笑を零した。
「もういいわよ。あたしも時間を忘れてたんだから、同罪よ」
「……うん。そう言ってくれると、助かる」
 再度二人で笑みを零した。

 一度日本へ帰りたいと言った私のわがままで、今、日本にいる。
 つい昨日言った言葉がすぐに叶うなんて思ってもいなくて。
 降って涌いた喜びと不安を同じに感じながら、私は自分の記憶にある場所を転々と訪れた。
 記憶を手繰っているうちに時間はあっという間に過ぎてしまって、私達は帰りの飛行機に乗り過ごしてしまったのだった。
 そうして、昼間のうちに訪れられなかったこの学校へと足を運んだ。
 あの日と同じように、満月の夜だった。

「あんたやっぱり変わってるわね。お昼じゃなくて、夜の学校に来たいだなんて」
 広い黒板の隅に描かれている小さな落書きを眺めながらミレイユがそう言った。
 それに笑みを返すと、自分の席だった場所の椅子を引いて腰を下ろした。
 久し振りに見るこの光景がとても新鮮に見えた。
 教室の出入り口に佇んでいたミレイユがその場を離れ教卓に立つ。
 そこから教室中を一通り見渡して、最後に私を見る。
「これからどうするの? どのみち今日は何処かホテル取る事になるけど」
 教卓に頬杖を付きながら話題を振って来た。
「そうだね。……もうちょっとここにいたい」
「好きなだけいいわよ。付き合うわ」
 優しい笑みを零すと、彼女は窓の外へと視線を移した。
 私もそれにつられて窓の外へと視線を移す。
 緩やかな風に吹かれて木々が緩やかにそよいでいる。
 開け放している窓から心地良い風と耳に響く木々のざわめきを聞いて、しばらくの間、言葉を交わす事はなかった。
 どのくらいそうしていたのかわからない。
「霧香」
 名を呼ぶその声に、はじめて意識が現実に引き戻された。
 声のした方へ振り向くと、いつの間に移動したのか一つ前の席にミレイユが座っていた。
「思い出は、見つかったのかしら?」
 視線は窓の外のまま、柔らかな音を辺りに響かせた。
 彼女の言葉の指し示す意味に、私は一つ頷いて答えた。
「……でも、今日は違うの」
 私の言葉に不思議そうに振り返るミレイユに小さな笑みを向ける。
 そしてゆっくりと席を立って、開け放している窓辺へと歩み寄る。
「ここには、思い出を還しに来たの」
「思い出を、還す?」
 空高い月明かりを背に再度彼女へと向き直る。
 思った通り彼女は不思議な顔をしていた。
「そう。ここから、私は過去への巡礼をはじめた。ここは私にとって物事をはじめる最初の地点だった」
 それだけを告げて、私は背に光る月を見上げた。
 眩しいほどの月明かりが目に染みる。
 あの日、日本を発つ前にここから見た月も同じように眩しかった。
 あの時の私は今ほど何かを新しく見る事はなかったように思う。
 例えばこの教室。
 変わり映えのしない毎日の中で見るこの景色を、ただ何となく見つめていたかもしれない。
 何でもない『普通』に憧れて闇の中に潜む刃を隠すが為に、毎日を色褪せた景色として見ていたかもしれない。
 『私』を探すが為に色々なものを見過ごしていたかもしれない。
 今日ここに来たのは、それらをもう一度見つめ直す為。
 私として、この場所から新しくはじめていく為。
「自分を探す過去への巡礼の旅は終わった。そして、私は犯した罪を、これからも犯すであろう罪を背負って生きていく事を選んだ。『夕叢霧香』として、生きる事を選んだ」
 不意に、一陣の強い風が私を吹き抜けていく。
 風になびく髪を手で押さえながら向かい風に目を細めて月を見つめた。
「だから、ここへは思い出を還しに来たの。新しい一歩を踏み出す為に」
 見上げていた視線を後ろの彼女へと移す。
 月の光に照らされた蒼い瞳がしっかりと私を見つめていた。
 その蒼に吸い込まれるように彼女へと近付く。
 数歩手前で足を止め、私を見上げる彼女を見つめた。
「それで、出来ればその一歩を、私と一緒に踏み出して欲しいの」
 そう告げて、ゆっくりと控えめに右手を差し出した。
 否定的な答えが返って来ても責めたりは出来ない。
 大切と思う人だから、出来ればずっと一緒にいたいと思ってしまう。
 これはただの自惚れかもしれないけれど。
 差し出したこの手を握り返してくれる、確信めいた自信は何故かあったりする。
 そして彼女がそれを裏切ったりしないとも思える。
 差し出した手を淡い温もりが包み込んだ。
 それが嬉しくて思わず笑みを零してしまった。
――――ありがとう、ミレイユ」
 握られた手をしっかりと握り返して、溢れる気持ちを言葉として伝える。
 月明かりに彼女の優しい笑顔が映えた。
「お礼を言われるような事はしていないわ。ただ、あたしもそう思ったから手を取った。それだけよ」
 繋いだ手を強く引かれてミレイユの側へと引き寄せられる。
 勢い余ってお互いの息が掛かる程に接近してしまった。
 その至近距離で少しの間瞳を見つめる。
「それに、大切と思う人とは、一緒にいたいものでしょ?」
 小さく笑う声が聞えて、握られていた手が離される。
「思いもよらない手紙貰って、本気で考えたわよ、あんたの事」
「え?」
 ふと、ミレイユが小さくそう口にして、反射的に問い返した。
「疑って掛かっていた相手から大好きだなんて言われて。初めてよ、こんなの」
 彼女の指先がゆっくりと私の頬へと触れる。
 そしておもむろに頬をつまんだ。
「っ、ミレイユ?」
 突然の事に驚いて思わず相手を見返した。
 そのミレイユは先程とは打って変わって悪戯な笑みを浮かべている。
「あたしを心配させた罰よ」
 そう言って反対側の頬も同じようにつままれる。
 されるがままに両の頬をぐいぐいと左右に引っ張られたまま、それでも何故かこみ上げる笑いを必死に押さえる。
 彼女もそれを楽しんでいるのか、なかなか引っ張る手を離してはくれそうになかった。
「……痛い」
 そろそろ頬が痛くなり始めた頃に、少し恨めしそうに小さく呟いた。
 それでも笑い混じりの声になってしまってミレイユにはそうは聞えなかったみたいだった。
 私の気持ちが通じたのかパッと頬を引っ張る手が離れる。
 俯いて、赤くなっているであろう頬をゆっくりとさすっていると、また小さく笑う声が聞えた。
 目だけを彼女へと移す。
 いつもの勝気な瞳がまっすぐ私を見ていた。
「それじゃ、そろそろ新しい一歩を踏み出しましょうか?」
 ゆっくりと椅子から腰をあげると、再度私を見つめる。
 それにひとつ小さく頷いて見せると、歩き出したミレイユの後ろについていった。
 教室を出た所で、私は足を止めて振り返る。
 静かな教室。
 一瞬だけ視界の端に、薄闇に佇み僅かに笑いかける昔の私の影を見た。
 目を凝らしてもう一度その場所を見るが、何もなく、ただ静かな空気が漂うだけだった。
「霧香? 何してるのよ」
 遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。
「ゴメン、ちょっと待って」
 少し小走りに、前に居る彼女の元へと走った。
 さっき見たのは昔の私。
 自分はひとりだと思っていた、過去の私。
 これから先、色々な荷物を抱えて生きていく。
 そうして両手に抱えた荷物が持ち切れなくなったら、私はまた、あなたに逢いに来る。
 思い出という荷物をあなたに預けに来る。
 だから、それまでは、別れを。

 今度逢う時は、あなたにも笑顔を渡せるように――――。

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