月光(Fate/hollow ataraxia)

 茜色と夕闇の合間。
 オレンジとグレーの混ざり合う空を見上げて、溜息をひとつ。

 背中に寄り掛かる温もりが、僅かに身じろぎした。
 そして、向こうもゆっくりと深く息を吐き出す。

 たゆたう空の雲が動くその僅かな時間を、とてつもなく愛しく思えてしまうのは。

「……っ、…………ふぅ」

 コツンと小さく背に何かが当たる感覚。

「…………星、見えませんね」
「まだ時間が早いからな。あと30分もすれば、見えるんじゃないか?」

 なるほど、と小さく相槌を打って、また二人して空を眺める。

 こんな何でもない会話さえ、失くしたくないと思う自分がいる。
 ――――思っていた以上の、未練。

「この空の色は、よく……私の故郷でも見ていた」

 ぽつりと呟くその声に耳を傾ける。
 この声を、その言葉を、忘れないように。

「同じ、なのですね。大地も空も、どんな所にいても、いつも同じ情景を見せてくれる」
「そうだな。あの頃見上げた空の色も、今見てるものも。オレが見ていた空の色と何も変わっちゃいないさ」

 全力で駆け抜けたあの時に見えていた色は、何も変わってはいない。
 それを美しいと思う感性をなくしたとしても、この大地と空はあるべき姿でそこに在るだけだ。

 僅かな風も吹かない、夕暮れ時。
 背中合わせで二人して空を見上げるこの時。

――――ねぇ」

 多少の笑みと不安を織り交ぜた声が、沈黙を破った。
 振り返りはしない。
 この背に受け止めている温もりが、何よりも大切だと解っているから。

「何だ?」
「………………」

 不安に押されて言葉が続かないのか、また沈黙が走る。

 長い、無言の時間。
 その間も空の色は移り変わり、今はもう夕闇が天を支配している。

「……あのね、クーフーリン」

 息を吹き掛ければ消え去ってしまう程の、小さく、弱い声。
 それは、強固な外面を守る鎧の内側にいる、コイツ自身の本当の声だ。

 背中の温もりが身じろぎする。
 ずり落ちそうになる背を動かして、どうにかバランスを保った。

「あぁ、どうしたマスター?」
「……私は、またあなたに逢えますか?」

 思いもよらない問い掛け。
 声の表情は、昔一度だけオレに見せた、期待と戸惑いと憧憬の混ざり合う顔とダブる。
 最初のその時、オレはそれをはぐらかした。
 単なる憧れの想いだとあしらって。

 ……それを、今。
 オレはやっぱり同じように、はぐらかそうとしている?

――――お前が、『オレ』を忘れなければ。逢えるさ」

 ゆったりと動く雲を眺めながら、思った通りの事を口にする。
 肩に凭れていた頭が動いて頭と頭がぶつかる。

 そうして、少しの間を置いて。
 嬉しさをまじえた小さな忍び笑い。

「良かった。それなら…………安心出来る」

 今までで一番、安らいで聞こえた声。
 その音は、オレの胸の奥にストンと落ちてきて、大きく波紋を広げた。

 固く、目を閉じる。
 際立つ波を乱暴に理性で抑え付ける。
 噛み締めた歯が不快な音を立てて鳴ったのを聞いて。
 肺に溜まっていた湿った空気を、ゆるゆると吐き出した。

 静かな、本当に静かな夕闇の中。
 見上げる空は、さっきまで見ていた顔を隠して違う表情を映している。
 闇に強く染まった空の端に、キラリと光るものを見つけた。

「……星。見えたぞ、マスター」

 合わせている背中の向こうに呼び掛ける。
 けれど、返って来るのはゆったりとした静かな空気だけ。

――――ったく。勝手だな、お前」

 呟いた声に、ヤツの少し怒った顔が思い浮かんで、笑みが零れた。

「バカヤロ。本当に好き勝手しやがって。言いたい事も言えないだろーが」

 煌く星に向かって、悪態。
 あぁくそ、口にするんじゃなかった。
 本当に、腹が立ってきそうだ。

 景色が闇に染まる。
 こいつの姿も、オレの身体も、全て闇に包まれる。

 これで、終幕だ。
 合わせていた背をずらして、崩れ落ちそうになるこいつを抱き留める。
 月明かりに照らされてぼんやりと映えるその表情は、嬉しそうに笑っていた。

「……ははっ」

 思わず笑みが声になった。
 最後の最後まで、こいつはオレに忘れられないようなものばかりを残していく。
 ――――上等だ。全部、拾って行ってやるよ。

 抱き留めた身体を、ゆっくりと側の大樹の元に凭れさせた。
 一度だけその髪を指先で梳いて、その場を立ち上がる。

 背を向けて、一歩、二歩。
 そうして、振り返った。

「次逢ったら、お前に言いたい事があるからな。忘れんじゃねぇぞ」

 微笑むバゼットが頷いたような幻視。
 それに笑みを返して、静かな闇の中へと足を踏み出した。

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