last.

 一人、また一人と部屋から退室してゆく。
 それを時々横目で確認しながら、もうぬるくなってしまった紅茶を一口、口にした。
「それでは、お姉さま」
 にっこりと笑みを浮かべて、祐巳が帰りの挨拶をしてきた。
「えぇ、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 ぺこりと頭を下げると、扉の向こうで待っていた令や由乃ちゃんと連れ立って行ってしまった。
 本当は一緒に帰っても良かったのだけど……。
 先程の祐巳と同じように対面の人物に丁寧に会釈して部屋を出ようとした志摩子と目があった。
「ごきげんよう、祥子さま」
「ごきげんよう」
 私が返した返事にふわりとした笑みを残して、今度こそ部屋を後にした。

 ちくりと、ほんの少し胸が痛む。
 そうして、まだあの事を引きずっている自分がおかしくなって、僅かに笑みを零した。

「何かおもしろい事でもあった?」
 突然後ろから声を掛けられて、慌てて振り向く。
 私を除いて、最後まで残っていた白薔薇さまが、新しく出したカップをふたつ持って立っていた。
「はい。紅茶で良かったよね」
「……えぇ、ありがとうございます」
「で、何笑ってたの?」
 対面ではなくすぐ隣の椅子に腰掛けて、煎れたばかりの日本茶を啜った。
「大した事ではありません」
「つまりは教えてくれないと?」
「つまらない事ですもの」
 僅かな笑みを返して、煎れ直して頂いた紅茶を口にする。
「でも、良かったの? 祐巳ちゃん。一緒に帰りたかったよーって顔してたけど」
「今日は外せない用があるから、とは言っておきましたけれど。少し、申し訳ない気持ちはありますわ」
「それで? そんな申し訳ナイ気になりながらも、私に何用かな?」
 ニヤリと、いつも見ている笑みが私を見た。
「あら、どうしてそう思われるのです?」
「なんとなーく。そうじゃないかなって思って残ってみたんだけど……違った?」
 絶対の自信があると言わんばかりの笑み。
 そんな相変わらずの鋭い勘に、私は再度笑みを零した。
「本当、良く人を見ていらっしゃいますわね。祐巳の事も、私の事も」
「紅薔薇姉妹は見てても楽しいからね~」
 はははと笑いながら、白薔薇さまは身体を投げ出すようにテーブルに突っ伏した。
「……それが一体どういう意味なのかは、今は敢えて聞かない事にいたしますわ」
「え、気になるなら聞いていいよん。って言うか、聞いて聞いて」
「結構です」
 ぴしゃりと言い捨てて、僅かに冷めたカップに口を寄せる。
「じゃ、キスでもしよっか?」
「っ?!」
 カップに口を付けるか付けないかの絶妙なタイミングに、そんな言葉を掛けられた。
 落としそうになったカップをとりあえずソーサーの上に置いて、直ぐ様白薔薇さまに向き直る。
「どうしていきなりそんな話になるのですか!」
「答え。せっかくの二人きりでもったいないから」
 飄々とした顔でスパッと答えを返される。
「一体何がもったいないとでも?」
「幸せそうな祥子の笑顔、かな」
 ふわりとした優しい笑みが真っ直ぐに私を射抜いた。
 そんな予想外の不意打ちに、反射的に顔が熱くなるのを感じた。
「………………」
 やんわりと笑う白薔薇さまから無理矢理視線を逸らすと、先程置いたカップを手に取り口に運ぶ。
 何だか紅茶の味がよくわからなかった。
「今更照れなくてもいーじゃん」
「照れてなんていません」
「じゃ、なんでこっち見ないかなぁ?」
 クスクスと本当におかしそうに笑う声がする。

 そんなの、当たり前だ。
 それを、思い出したから。
 本当にほんの短い時間だったとは言え、惹かれたのは事実だから。
 また胸がちくりと痛んだ。
 けれど今度は、懐かしい痛み。
 同時に、忘れていた愛しさも込み上げてくる。

「でも、良かった」
 ずずずとお茶をすする白薔薇さまを見る。
「祥子も、ちゃんと見つけれて」
「祐巳を、ですか?」
「まぁ、そうと言うか、違うと言うか。……私と志摩子みたいなもの。かな」
 コトン、とテーブルにカップが置かれる。
「焦らなくても良かったって事よ。自分に必要だと思う人は、いつか必ず訪れるものだから」
 思いきり背凭れに背中を預けて天井を仰ぐ白薔薇さま。
 近くで話をするようになってわかった事がある。
 彼女は自分の核心に触れるような話をする時は相手を見ない。
 その代わり、相手を慈しむ時は純粋なまでに真っ直ぐな瞳を向けてくれるのだ。
「別に、焦っていたわけではありません。ただ」
「そうなんだよね~。焦っていたのは私だったんだよなぁ」
 ありゃ参ったよ、と笑顔で呟いて先程のお茶会で広げられていたお菓子の残りに手を伸ばすと、銀紙で包装されているチョコを数個摘まみ上げる。
「なるほど。それで、さっきの笑顔、か」
 その中の一つの銀紙を剥きながら、唐突に話を振られた。
「…………何が、ですか?」
「ん? 志摩子見て笑ってたでしょ? どうしてかなと思ってたんだけど」
 中身を口へ放り込んで、出しっぱなしだった筆記用具の缶の中から油性の細いマジックペンを取り出すと、おもむろに銀紙に何かを書き出した。
 書くと言っても、ただ単にぐるぐると円を書くだけの落書き。
 その手元から目を逸らして、窓の向こうの空を見た。
「どうしてだと、思われますか?」
「んー?」
 間の抜けた返事。
 この場に私しかいないからか、はたまた、誰にでもそんな返事をするのか。
 そう思うと、少しだけ意地の悪い事を言ってやろうと思ってしまうのも、忘れていた想いのせいか。
「私が笑っていた理由です」
 きっと簡単に答えを出すだろう。
 そしてそれは、彼女にとっても私にとっても一番近しい回答。
「理由、ね」
 けれど、意図的に彼女はそれを口にしない。
「何か、それって今更じゃない?」
 白薔薇さまが笑って、またガサガサと紙の擦れる音が聞こえた。
「んー、敢えて言うなら……」
 それっきり、白薔薇さまは黙り込んだ。
 突然の沈黙を不思議に思って視線を戻す。
 手に取った数個のチョコの包みが全て広げられていた。
 それまで落書きに使っていたサインペンもテーブルの上に転がっている。
 違うのは、テーブルに両肘を突いて組まれた両指に顎を乗せて、彼女が真っ直ぐに私を見つめている事だった。
「敢えて言うなら……何でしょう?」
「わかってるクセに」
「おっしゃって頂けないとわかりません」
 私の言葉に、くくくっと声を殺して笑うと、組んだ両指を崩して頬杖を突く。
「じゃ、祥子は何で笑ってんの?」
「笑ってなんていませんわ」
 言いながら、勝手に緩む頬を確かに感じていた。
「……いいね」
 ニヤリと口端をつり上げて嬉しそうな笑みを零した。
 そうして、鞄を持って席を立つ。
「お帰りですか?」
「話は終わったから。違う?」
「そうですわね」
 私が笑って答えると、白薔薇さまも笑みを返してくれた。
「しかし、さすがは姉妹、だね。それぞれ違う魅力がある。そそられるよ」
 扉のドアノブを掴んだまま、顔だけを私に向けて、
「でも、君のお姉さまにはまだまだ遠いかな」
「だって、私のお姉さまですもの」
 言って、合わせていた視線を外しながら私も席を立つ。
「はは、そういう所は、そっくりだ」
 嬉しそうにそう言うと、白薔薇さまは扉を開いて部屋を出て行った。
 乾いた音を立てて閉まる扉の音を背に、使ったカップを流しへと持って行く。
 洗ったカップを水切り籠へと伏せて置き、濡れた手をハンカチで拭きながらテーブルへと戻る。
 食べ散らかしたお菓子の小袋や銀紙を寄せ集めている途中、ふと、目の端に丁寧に二つに折りたたまれた銀紙が映った。
 丁度、白薔薇さまが座っていた場所。
 そういえば、話をしている最中に何か落書きをしていらしたような……?
 捨てるついでにと、ちょっとした好奇心で三枚のそれを拾い上げる。
 最初に広げた銀紙にはぐしゃぐしゃと乱雑に描かれた四画やら丸やらが並んでいて、その下の方に虎みたいな動物が描かれていた。
 それが学園内にいる猫だと気付くのに数秒要した。
 数日前に中庭で令がメリーさんと呼んでいるのを思い出した。
 前に祐巳から聞いた事がある。
 あの猫は白薔薇さまが助けた猫だ、と。
 確か、学年で呼び名が違っていて……。
 お姉さま方の3年はゴロンタ、私達2年はメリーさん、祐巳達1年はランチと呼んでいるんだと言っていた。
 ……そう、あの猫が。
 次に見かけた時は、少し違った気持ちになれるかもしれないと思いながら2枚目の銀紙を広げる。
 思わず、それに見入ってしまった。
 書かれているのは4文字の言葉。
 整った文字で、ただ「ありがと」と書かれているだけ。
 それだけなのに、少しの寂しさと、何故だか胸の奥が暖かくなっていくような錯覚を覚えた。
 もしかしたら、忘れたと思っているだけで、本当はまだ待ち望んでいたのかもしれない。
 そこまで考えて私はまた笑みを零した。
 今更何を待ち望むと言うのだろう。
 私にも向こうにも、手放したくない大切なものは揃っているというのに。
 手にしていた残りの3枚目には何も書かれてはいなかった。
「……ありがと、か」
 声に出して、言葉を噛みしめて。
 これで終わりなんだと感じた。
 だから、最後ぐらいはあの人を真似てみるのも面白いかもしれない。
 テーブルに出しっぱなしにされていたサインペンを手に取ると、何も書かれてはいなかった3枚目にペンを走らせる。
 書き終えてそれを確かめると、筆記用具の缶の中へサインペンを戻して、寄せ集めたごみを屑篭へ放り込んだ。
 そうして、私も自分の鞄を手に取ると、そっとテーブルを離れた。
 折りたたまれた銀紙はテーブルの上。
 最初と違うのは、置かれた銀紙は1枚だけだという事。
 部屋を出る直前に足を止めしばらく考えて、スカートのポケットに忍ばせた2枚の銀紙を取り出す。
 それを、流しの側にある屑篭へと放って、私は部屋を後にした。

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