幻想曲

 出窓に腰掛けて窓の外の景色を眺める。
 薄い青が伸びる空。
 ゆったりと流れる雲に寄り添うように聞こえる伸び伸びとした歌声。
 他の雑音に掻き消される事なく風に乗って響く音は、緩やかな空間をどこまでも優しく包んでいた。

 不意に、歌声とは違う音に意識が引き付けられて。
 それへ顔を向けると、ゆったりとした笑みを浮かべて扉を閉めた妹の姿があった。
 軽く会釈をして、聞き慣れた挨拶を口にする。
 私はそれに頷いて答えると、また窓の外へと目を移した。

 聞こえてくる歌声はグノーのアヴェ・マリア。
 唄っているのはあの彼女だろう。
 何度か廊下や中庭ですれ違ったりしたけれど、目が合うだけで何もない。
 目が合ったとしても見つめあうことなんてない。
 始めからそこには誰もいなかったように、通り過ぎるだけだ。

「お姉さま」

 呼ばれて振り向く。

「何かお飲みになられますか?」
「んー……それじゃ、紅茶」

 はい、と短く頷いて流しへと向った。
 その後ろ姿から目を逸らして、見上げていた空からも逸らして、ひっそりと息づいている校舎を眺める。

 気付かれただろうか?
 ……鋭い彼女のことだ、きっと気付いている。
 ただ、今まで通りに見て見ぬ振りをしているだけ。
 あえて目を合わせないようにしているのは、私の方だから。

「歌っているのは、静さまですね」

 紅茶の入ったカップの乗ったトレーを持って志摩子が歩み寄って来た。
 ソーサーごと紅茶を受け取ってカップに口をつける。
 砂糖を溶かした甘さではなく、紅茶の茶葉から湧き出る自然な甘さが口中に残る。

「どうして、そう思う?」
「近くで聴かせて頂きましたから」

 側のテーブルにトレーを置いて私に一番近い席に腰掛けると、自分用にも淹れてきた紅茶に口をつける。
 そのゆったりとした無駄のない一連の動作を横目で見て、それから窓の外に目を向けた。

 冷たく、けれども熱い感情に触れて。
 本当にあれは彼女だったのかと錯覚する。
 押し付けられた口唇はうっすらとした熱を持っていたけれど。
 初めて見上げた顔には、真っ白い感情しか貼り付いてはいなかった。

 風に流れる音に耳を澄ます。
 何もない、ゆったりとした時間。

「お姉さま」

 沈黙を破らない程度の音で呼ばれた。
 笑みを湛えている、凛とした瞳が私を捉えている。
 どんな躊躇もない。
 その瞳は真っ直ぐに私の奥へと踏み込んでくる。
 それを望んでいるわけでもないのに。
 求めていたのは、もっと違うものなのに。

「昨日は、ゆっくりとお休みになられましたか?」

 純粋に私を労わってくれる言葉でさえ、どこか違う色を伴って聞こえてくる。
 必死に匿っていた痕は、どうして今更になって激しく疼き出すのだろう。

「まぁ、ね。昨日も休日だったし、寝すぎたぐらい」
「寒さもこれからの時期は厳しくなりますから」

 大切な時期ですしきちんと体調管理して下さい、と釘を刺される。

「そうね。気をつけるよ」

 窓辺に置いたカップを手繰り寄せて、少しぬるくなったカップを口に運ぶ。
 精一杯の虚勢。
 本当にちゃんと笑えているかさえ定かじゃない。
 こっちは、いつまで経っても慣れない距離が一気に縮められて戸惑っているというのに。
 どうしてそんな穏やかな顔で笑えるというのだろう。

 あの一言を聞かないままで踏み込まれたなら。
 もしかしたら、違う想いを抱けたかもしれないのに。

 聞こえてくる歌声はどこまでも真っ直ぐで、優しい。
 この空間に満ちる空気も、息が詰まりそうになる程ゆったりとたゆたい。
 胸を掻き毟りたくなる感情だけが、激しさを増して。

 伏せた目をゆっくりと閉じる。
 忘れられないんじゃない。
 忘れたくないだけ。
 負った痕に触れられたくないだけ。
 それ以外なら、私は。

「…………あの?」

 控えめに掛けられた声に意識が引き戻される。
 気が付けば、私は自分の前髪を強く握っていた。

「やっぱり、まだ調子が良くないのですか?」
「……いや、違う」

 顔を上げてすぐ目前の妹の顔を見つめる。
 それで通じたのか、心配そうな表情が幾分強張った。

「志摩子」

 今更気付かなかった振りなんて出来ない。
 少し考えればわかった事なのに。

 伸ばされた指先が躊躇いがちに腕に触れて。
 生地越しに感じたものは、冷たくも熱くもない。
 あの時とは違う、強い戸惑いと悲しみだった。

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